実は今回この感想を書くにあたって、『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を観た。
フレデリック・ワイズマン監督が、12週間にかけてニューヨーク公共図書館を撮影した約150時間の映像素材を1年かけて3時間25分に編集したドキュメンタリー大作だが、まあそれにしても大作すぎて、今までずっと観るのを引き延ばしにしていた。
なんで突然観る気になったかというと、今一度自分の中で「ドキュメンタリー映画とは何か」ということを整理したくなったから。ドキュメンタリー映画という大枠を考えるのに、丁度良い作品のような予感が勝手にしたのだ。
図書館についてのドキュメンタリーだけれど、冒頭はその蔵書や本を読んでいる人々の風景なんぞではなく、いきなりエントランスホールでリチャード・ドーキンスが講演会を開いている様子である。「”若い地球説”を支持している人たちはバカか無知か頭が変なのだと書いたが、それはシンプルな事実であって私が好戦的なわけではない」という博士の一撃にホールに漏れ出る笑い声。そこに集まった多様な人たちの表情。真剣な顔、知的好奇心にらんらんとした顔。
たったこれだけでもこの映画の視点がどこにあるのか伝わってくる。「公共」とはなにかということ。この図書館はただ本を保管するだけの場所ではなく、知を交換し、文化を通じて人々が交わる市民のハブであり、さらにはそんなピアトゥピア的な繋がりによって市民ひとりひとりがもっと大きなものに対抗できるようになる(この映画が公開された頃のアメリカはトランプ政権だった)使命を帯びた機関でもある、ということ。
さらに、このドキュメンタリーには一切ナレーションやインタビュー映像が出てこない。それはあくまでこの映画の主人公は人物でなく図書館だから、と言っているようにも思えるし、やみくもに人の語るストーリー的なところに回収されていくのを避けるためにも思える。ただそこに居る人たちを映しているだけ、という勇気のある作りになっているが、多分それは映像そのものから読み取れる情報量の豊かさを作り手が信用しているからなんだと感じる。実際、センセーショナル場面も明確なストーリーもないのに、3時間25分、知的興奮がたっぷり詰まっていて飽きさせない。
ここで私が基本に立ち返ってドキュメンタリーについて学んだことは大きくふたつ。まず編集には思想が表れる、ということ。そして映像はそれ自体が語っている、ということ。
と、JO1の映画の感想と銘打ちながら、ここまで 『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』 について長々書いてしまったのは、なにもこの巨匠の(おそらく予算も規模も全然違う)大作とアイドルのドキュメンタリーを直接比べてねちねちやっつけてやりたいとか、そういうつもりでは全然ない。ただ単に、まずはドキュメンタリーってなんだったっけ?何がドキュメンタリーをドキュメンタリーたらしめるのだっけ?というのを個人的に思い出す必要があった。
それぐらい、『JO1 THE MOVIE 『未完成』-Go to the TOP』という作品を見て、わたしの思考は吹っ飛ばされて、呆然とし、路頭に迷ってしまった。
JO1 THE MOVIE 『未完成』-Go to the TOP-って……一体なんですか?
私が駆け出しのエンタメライターかなんかだったとして、『 JO1 THE MOVIE 『未完成』-Go to the TOP- 』(長いので以下『未完成』と書く)を「ドキュメンタリー映画」と紹介するように指示されたとしたら、飲めないウォッカをひと瓶あおる必要がある。
『未完成』 を構成する主な映像素材はJO1の既存のパフォーマンス映像であり、そこに今までの活動を振り返る形でメンバーのインタビュー映像が重ねられているのみである。去年末に行った初の有観客ライブをクライマックスに置き、そこに至るまでの軌跡という大まかな筋書きにはしてあるものの、基本的にはデビュー以後のJO1の活動を網羅的に並べているだけであり、そこに作り手の対象への視座や思想を見出すのは困難である。編集に批評性がなく、作り手の取材によって得た映像によって語る部分もほとんどないとすれば、これを「ドキュメンタリー映画」と言いきるのは苦しいだろう。
じゃあこれは何なのか。敢えて言えばあれに近い、浮かれ気分の恋人たちが付き合って一周年記念とかに制作する「思い出アルバム」。つまりこれは「JO1とファンとの記念アルバム」。もしくは結婚式で流す馴れ初めムービー。最初からそういう触れ込みだったら納得したし、満足だし、話はこれで終わってしまう。むしろ、そうならよかった。
しかし、それで話は終わらないのだ。これが「未完成製作委員会」が全部作ったようなテイになっていれば、話はまだ簡単だった。だが、『未完成』は公開以前から、稲垣哲朗という映像監督を監督に迎えること、そして彼が1年間かけてJO1のメンバーに密着し、膨大な映像素材(監督が取材で得た映像データはなんと50TBにも上る!)から選りすぐって制作されていること、を宣伝していた。私は単純に思う。その50TBの映像は一体どこに行ってしまったのだろうか。なぜ、時間と労力をかけて収めた映像をほとんど使わなかったのだろうか。消えた50TB。ここにこそ、本当のドラマがあるのではないか。
消えた50TBというミステリー
私はまず監督の作家性について知りたいと思った。稲垣哲朗監督は、元々ミュージックビデオ畑の人らしい。Underworldが在籍していたデザイン集団Tomatoに刺激を受けて映像を目指したと語っていた。であれば益々、映像の持つメッセージ性には敏感であるように思われる。
過去にはMr.ChildrenのREFLECTIONというドキュメンタリー映像作品を撮っているが、これはソフトを入手する必要があったので観るのを断念。ネット上で見られる作品としては、ヨルシカの『老人と海』という曲にショートムービーを付ける企画に参加されているものがあり(『老人と海』特設サイトのInspired Moviesのページから視聴できる)これひとつで作家性を推し量るのは難しいが、スマートフォンには天地がないということを効果的に利用した映像で、なんとなくTomatoから影響の片りんを感じさせる。
で、こういう拘りを持って映像を作る作家さんが、敢えて自分が足で稼いだ生の映像を、自分の名前が冠された作品に「ほとんど使わない」という判断を果たしてするものだろうか。
「裏側を映さず、ポジティブな面だけを切り取るというのが監督の優しさではないか」という感想もちらほら見た(しかしそれで納得できるファンの方々の心根のなんと優しいことか…)が、それは裏を返すと「JO1は少しでも裏側を映したらネガティブな映像しか出てこない恐ろしく闇が深いグループ」ということになってしまいそうだが大丈夫だろうか。きちんとカメラの前で正装したインタビュー以外では放送で使えないことしか話していないグループなのだろうか。それはそれで嫌いじゃないが。
例えば、冒頭で各メンバーのキャラクターを紹介する部分がある。『未完成』ではこれを「(與那城)奨くんはリーダーシップがあって…」等と言葉によって説明する形をとっているが、こういうメンバーのポジティブな人間的魅力を映像で表すことも出来たはずである。
白岩くんが雑誌のインタビューで度々、リーダーの與那城くんについて、「彼は毎日、必ずメンバーのひとりひとりと目を合わせて、名前を呼んで挨拶している」というエピソードを語っていることがある。
50TBの映像の中に、與那城リーダーが来る日も来る日もメンバーにおはよう、おやすみ、と言って回る映像は一度もなかったのだろうか。彼はコミュニケーションをとるだけでなく、おそらく挨拶を通じて各メンバーのその日のコンディションまで見ているのではないか。「リーダーシップ」と言葉で言っても色々あるが、これほど彼がどういうリーダーなのか表している行動はないのではないか。
それとも、そんな映像素材はどこにもなかったということなのだろうか。だとすれば、白岩くんは対外的に、そして実に戦略的に嘘を言っていることになるが、JO1とはそんな悪魔みたいな若者たちの集まりなんだろうか。それはそれで嫌いじゃないが。
それとも、稲垣監督が単に私が思うような部分にメンバーの魅力を感じなかっただけなのだろうか。しかし、監督のインタビュー映像などを見ると、彼の語るメンバーの個性には共感できるところが多い。
特に、インタビューで監督が金城くんの人となりについて語った中に、彼はアブストラクトな絵を描いたりしてアーティスティックなんだけど、「いつかこの絵にメンバーが塗り足してほしい」と言っていたのが印象に残っている、つまりJO1という集団には、個性をぶつけていくというよりは、みんなが塗り重なっていくようなクリエイションの在り方があるのではないか、という話があった。
もはやそこを核に『未完成』を描くべきなのではないか、というぐらい重要な話だと私は思ったし、監督も重要だと思ってそこで話したのだと思うが、完成版には使われていなかった。その部分だけではなく、どうも監督が自ら語っている時の彼らの良さが、うまく本編に反映されているように思えないのである。こうなってくると、どの素材を使ってどれを使わないのかの選択に、どれだけ稲垣監督の意志が反映されているのかも分からなくなってくる。
それもこれも、なんらかの「優しさ」に基づいて行われた判断だと言えるのだろうか。そりゃ明らかな失言があったりしたらカットするのが優しさだと思うが、もしちょっとでもネガティブなことを言ったら「配慮」されてしまうのだとしたら、それは真綿で締められているようにも感じないだろうか。
なにかと持ち前のピュアネスがさく裂していることが多いため、「JO1幼稚園」とか「赤ちゃん男神」とか形容されがちな彼らだが、当然、彼らにも若者なりの反骨精神みたいなものを感じる時はある。
特に、PROCESS JO1という、彼らの活動の裏側を追うyoutube企画(正直こっちのほうがドキュメンタリー性は高い)が編集トーンが暗いことでファンから不評を買っていた時に、その視聴者からのdisコメントを自作の曲に本歌取りしてしまう川西くんにはbeef精神を感じたし、またファンからの「会議中にスマホをいじっているのでは」というコメントに真正面から「俺はスマホいじってません!」って放送の場を借りて言い返す河野くんなんかを見ていると、そうだよな、外野は色々いうけど本当はそうじゃないって弁明したいこととか、若者なりに当然あるよなあ、また、そういう所が彼らの清さだなあ、と思ってきたので、ドキュメンタリーというのは彼らからの「反論」が出来るいい機会でもあったのではないか、とも思っていたのだが。
JAMについて
『未完成』には「JO1の活動を振り返ること」と共に「JAMとJO1の絆について」という軸が存在している。(JO1のファンの事を彼らはJAMと呼称している)
この映画は編集に作り手の思想が見いだせない、とさっき書いたが、実はJAMの描写については滲み出てしまっている部分がある。
『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』で映し出される人々は多様である。子供、老人、様々な人種、宗派、マイノリティ。一方、『未完成』で映し出されるJAMの姿は、これは敢えてこういう言い方をするが、若くて美しい女性ばかりである。
そもそもライブの現場でインタビューしているので、ファンの比率的にも気合いの入ったお洒落をした若い女性が多いのは分かる。だが、探してでも男性や、より幅広い世代の人に声をかけるべきではなかったか。
またコロナ禍で支えてくれた、という文脈でJAMを語るなら、JAMの活動の主な舞台はインターネット上である。彼ら/彼女らのtwitter上でのタグ発信や情報拡散のパワーは凄まじい。さらに特徴的な活動に、メンバーの誕生日に様々なイベントを企画しているというものがある。ファンコミュニティで資金を集め、駅に広告を出したり、花火を上げたり、ドバイで噴水ショーが行われたりもした。また、グローバルボーイズグループを自称しているわけなので、そこには様々な言語の、国籍のJAMがいる。関東近郊で行われたライブ現場に集まることが出来た特定のJAMを取材するだけでは、圧倒的にJAMという生態系を映し出すには不足している。
アイドルとファンの関係というのもまた複雑で、いびつで、綺麗な瞬間もあればそうでない瞬間もある。そういった暗部を克明に映し出せとは言わないが、JO1とJAMという関係性の「誰も不快にしない」限りなく「美しくてポジティブな側面」だけを取り出そうとした結果、それが若い男女のヘテロラブストーリーのように描かれるというのは、あまりに排他的に映る。
また、これも監督が公開前のインタビューで語っていたことだが、JO1のメンバーはちょっとした会話の中でも「JAMが…」という言葉が自発的に出てくるので、特殊だなと。であれば、その映像、50TBの中になかったんだろうか。メンバーがメディア向けの発言ではないところで、日常的に「JAMがさあ…」と語ってくれている映像があればより真実味があって、とってつけたように「あなたも12人目のメンバーです」とか言われるより、よっぽどJAMは嬉しいんじゃないだろうか。なぜそういった素材をお出しできないのだろうか。なにがそれを阻止しているのだろうか。ここでまた消えた50TBのミステリーに戻ってくるのである。
要因X?
私の凡庸な推理力では、結局「上から色々言われた」結果こうなった、以外の要因が思いつかない。『未完成』は2年間のJO1の活動を追った映画だが、稲垣監督が実際にJO1に取材していたのは後半の1年間で、それ以前の1年間については事務所から提供してもらったという。だったら内容を後半の1年に絞ったって良かったと思うし、むしろその方が監督の作家性を発揮できる気がするが、それじゃ分かりにくいとかなんとかとケチがついたのではないか。妄想ですけど。
JO1は日本で結成されたアイドルだが、所属は吉本興業と韓国のCJ ENMによる合弁会社である。いまだにKカルチャーを勉強不足なのでCJがどういう会社なのか詳しくないのだが、以前にたまたま見たDOMMUNEのKポップ特集で「CJは松竹のハードコア版」「というかフリーメーソンに近い」という話を聞いて「完全に理解した」状態になった。
フリーメイソンを相手にひとりの映像作家が作家性を守るために戦えるだろうか。吉本だって手強い。
つまり、ここになにかドラマがある気がしてならない。『未完成』は、『未完成』についてのドキュメンタリー映画を作るべきなのだ。フィルムを守ろうとする監督。ゲンドウポーズで「全てはゼーレの筋書き通りに」と迫るCJ社員。そして消えた50TB。妄想ですけど。
最後に
色々適当なことも書きましたが、基本的にはJO1はいい大人に囲まれているなあと感じることのほうが多いです。所属事務所のひとたちも、稲垣監督もすごくいい人な感じがします。というかあんまりみんないい人で、家族みたいなんで、批判的なこととかできれば言いたくなくなっちゃいますよね。
まあしかし、観客として作品に対する忌憚のない感想を言う権利はあると思ったので今回は文章にしました。
JO1、楽曲がとても好きなので、特に『Born To Be Wild』はボーイズグループ史に残る名曲だと思っているので、このパフォーマンス映像を高画質大画面で観られたという意味での感動はありましたし、期せずして自分の考える良いドキュメンタリーとはなにか、について良く考えるいい機会を与えてくれたことには感謝です。
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